鳥取県日南町 生山駅・上石見駅開業100周年

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鳥取県日南町 伯備線 生山駅・上石見駅 開業100周年記念

伯備線 生山駅・上石見駅 開業100周年事業

日南町実行委員会

祝開業100周年

100th Anniversary

2023年11月28日火曜日は伯備線 生山駅 開業100周年の記念日です。

生山駅

しょうやまえき

syouyama station

 1923年(大正12年)11月28日に開業した生山駅は開業から現在まで、鳥取県日野郡日南町生山字後藤屋敷153番地にあります。

 生山駅開業以降、生山地区は奥日野の各村から出荷される物資の集積地となり、多里からクロム鉱石を満載した鉄道省のトラックや、材木などが駅前に多く置かれ、国鉄や運送会社の職員などが常駐する駅となりました。そのため、必然的に生山駅周辺は賑やかになり商店街が発展してきました。

 2021年7月に無人駅となりましたが、現在も特急やくもは上り下りの約半数が停車し、寝台特急 銀河も京都発の下り便が停車するなど鳥取県の西南部の玄関口として、陰陽連絡路線の駅の役割を果たしています。
開業当時からの駅舎は2006年7月に建て替えられ、地域間交流施設クローバが併設されています。

このページでは生山駅が開業した時期を中心に内容を構成しています。

昭和30年代の生山駅全体をとらえた写真

日南町所蔵

  • 伯備線と生山駅

     1915年|大正4年に伯備線は当初『根雨軽便線』として当時の鉄道院によって計画されました。
    1887年|明治20年代はじめから続く、ほぼ同時に山陰や中国地方各地要望が挙がっていた鉄道敷設に対して鉄道院が優先順位をはっきりしないなど計画が遅々として進まない中で、鉄道院が妥協策で『軽便線』として計画をスタートさせた鉄道敷設でした。
    軽便線は通常の鉄道の規格よりも緩く、参画する企業へ課せられる条件(ハードル)も低めである等、事業を進めやすいものでした。

     こうして現地調査を踏まえて1916年|大正5年12月にまずは伯耆大山~伯耆溝口間が工事着手されました。
    現在『伯備線』と呼ばれる路線が全通開通したのは工事期間として、1916年|大正5年12月~1928年|昭和3年と約13年にも及ぶ工事でした。
    伯備線は全ての工事が完了してから開業・運用開始ではなく、先に着手された上記、伯耆大山~伯耆溝口間の後に伯耆溝口~新見間を『伯備北線』(1920年|大正9年3月12日 鉄道院告示第19号米子建設事務所々管)とし、倉敷~新見間を『伯備南線』(多度津建設事務所々管)として北から南からそれぞれ工事が進められました。

    生山駅はその中で伯備北線『第四工区 黒坂~生山間』として工事が開始されました。工事期間は1921年|大正10年10月6日~大正12年9月14日までとわずか2年で完了しています。その工事に関する概要は下図のとおりです。

    • 引用:山陰の鉄道建設史


  •  また同資料中で工事の概況を伺えるので一部参照し掲載します。

    ”山陰の鉄道建設史より一部を抜粋”
    黒坂~生山間延長10粁(km)762米(m)の線路で、前工区(第三工区 江尾~黒坂間)と同様県道鳥取~広島線に併行して渓谷を通過するため、土留石垣の築造が多かった。特に黒坂~上菅の中間、生山の米子方1粁5附近は夫々面積2,466平方米と、2,347平方米は大きな土留石垣であった。土工としては上菅から生山よりの切り取りと、植松山隧道新見口の道路付替附近の築堤が最も大きいものであった。地質は大部分が風化花崗岩質のもので、施工上特に支障することはなかった。橋梁は第七日野川(鈑桁径間18.2米6連、槽状桁径間6.1米)、第八日野川(鈑桁径間18.2米4連、槽状桁径間6.1米)、第一石見川(鈑桁径間18.2米1連、12.1米4連)などの外小橋梁が一か所あった。各橋梁とも渇水期に素掘りで施工した。第七日野川橋梁の基礎部の地質は米子方橋台から第3号橋脚までは玉石または砂礫で、第4号から第6号橋脚までは岩盤が露出していたため施工は容易であった。
    第八日野川橋梁の橋脚基礎の第1号から第3号までは、前記と同様に露出した岩盤を利用し、他は箱枠根掘りを施行したが、湧水は多かった。第一石見川橋梁は石霞渓からの流れが急な位置で、根掘作業に苦心したが、深さ1~1.5米で岩盤に到達することが出来たので、その後は容易に工事を進めることができた。
     隧道は黒坂(176.8米)、植松山(352米)、田ノ原(521米)、松本(265.5米)の4隧道があった。このうち黒坂隧道の新見口の地質は花崗岩で良好であったが、中央から米子口は純粘土で湧水が多く作業は困難であった。植松山隧道の米子口方の地質は玉石混入した土砂で、新見口方は硬軟入り混じった花崗岩層であり、あまり良好でなかった、掘削及び畳築工ともに順調に完了した。
    建設費は1,521,591円、1粁当り141,400円となる。
    -抜粋終-

    (※サイト編集者の気持ち)
    文章なので、ふむふむとさらっと読んでおしまい。になりがちですが、例えば文章中の「石霞渓の流れが急なところで深さ1.5mも掘る作業」。大正時代にどれ程度の建設機械があったかは想像できませんが、おそらく当時では大変な作業ではなかったでしょうか。
    今、私が石霞渓に入り1.5mも掘る作業をする事と考えると無理...な気がします。
    日野郡地域で古代から営まれていた『たたら製鉄の鉄穴流し』もそうですが、冬には雪も寒さも厳しい日野地域に於いて、先人たちの苦労と努力と、それらを克服してきた逞しさには本当に脱帽では足りないくらいの想いです。


    こうして伯備北線の各工区の工事が進められ、1923年|大正12年11月28日水曜日に『伯備北線 生山驛』が開業しました。
    鐡道敷設を推進してきた地元の皆さん、鉄道敷設工事に従事された方々、関係各位のみなさん本当にお疲れ様でした。

    • 日南町所蔵資料

  • 生山驛開業のようす


     1923年|大正12年11月28日水曜日に生山驛が開業し、列車の運行が開始されました。現日南町地域の各村の人々は待ちに待った鉄道開業をとても喜びお祝をしたようです。
    現代で言えば、当時の驛開業はどれ程のものに例えられるものでしょうか。

     木炭・材木、多里の鉱山から産出されるクロム鉄鉱などの輸送手段と輸送機関・時間の短縮と効率化。これらにより大きな経済効果が日南町地域にもたらされました。
    また旅行もぐっと身近なものになったのではないでしょうか。

    そう考えると生山驛の開業は日南町地域の村と人々と仕事と生活を一変させた大変なもであったのだと想像します。

    • 提供:生山自治会

  •  上記のように日南町地域では全村を挙げて開業に関する式典、お祝やイベントが実施されたようです。そこに計上された予算や参加した人々や各イベントの様子などが当時の新聞の一つ、因伯時報に掲載されています。その記事から開業の様子を見てみたいと思います。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)

  • 新聞の保存状態の影響により、今回入手したものでは新聞記事の文字がはっきりと読み取れないものが多くありました。そこで手作業により、なるべく読める文字を出来るだけ当時の漢字のままデータに起こしてみました。
    以下に各見出しと詳細記事を掲載させて頂きたいと思います。

    また文中の●(黒丸)は識別不能の文字を表しております。


  • 今廿八日から開通する
    伯備線黒坂生山間

    言ふもくだ陰陽両道の連絡鉄道線中の眞中央に位し南四國の果より北朝鮮に直通的連絡の名を持っている伯備線は今廿八日を以って又々二哩二分を延長して日野郡上村大字霞村生山町迄の開通をなした吾人は先ず国家的の見地より●重要線路の延長を祝福し更に地方の為に大多的の歓喜を禁じ能はざるものである。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 沿道は有名な
    山陰耶馬渓の勝

    難工事を思はせる生山驛

    今日開通の区間は本紙の既記せる如く日野郡黒坂村大山驛起点二十一哩六十七●の黒坂驛に発し大小五個の鉄橋●二個の●●を経て新驛に達す。沿道は●●となる山陰耶馬渓の●ある石霞渓の区域に●し秋峰清流の間奇巌怪木を●迎する盧廣汎の平野を●つて進むものとは其趣を異にするに於いて特色ありといはねばならぬ。
    生山驛は●背山麓に位置せる外驚くべし縣道より四十二尺の埋立てをなし更に山腹を幅数十●に亘り百尺除の切り取りをなし●も廣●約二千餘坪の構内を創設したるものであり縣道連絡の驛前道路は幅六間にして●卜六十間に及び●付近の眺望全く一大変革をなして●時の追想●難からしむるの大工事である同時に歩●に沿ふ線路がカーブを以って終始せるが如き附近鐡道中に其比を見ざるものであつて従つて其工事に苦心の注がれたるを●●に足るのである。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 生山驛は
    日野奥部の終点
    関係ある諸部落

    生山驛は日野川沿岸を遡上せる本鐡道の最終端である。當驛に来れる線路は●れより日野川を●れ左折して石見村に入り直に両道分水嶺を穿つて岡山縣に入るのである。即ち當生山驛は日野郡奥部の最終地点といふべきである。
    日野郡は生山驛の以南廣島縣界に●●六甲強の縣道を通じ東西 ・・・(途中文書欠落)・・・面積を有す此間に介在する日野上本村福榮村多里村山上村阿毘縁村の数村はいふ迄もなく當生山驛の吸集的勢力地盤である。
    而して此数村の有する林産及び鉱石等無尽蔵の物資は一に當駅の咀嚼に俟つ否単に如上数村のそれのみならず隣縣島根の仁多廣島の比婆二郡の接壌地域は等しく地利の関係に於て又當驛憧憬が顧客あること敢て贅するに及ばず。
    思ふに當驛の将来は正に同線中の覇者たるに相違ないと信ずる。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 生山驛設置の経緯
    関係者が雀躍歓喜


    當驛の設置は其初め至難の業なりとせられて居た●ハ其筋の予定が一里許り下の荒神原村より左折して直ちに石見村に入るの設計であつた爲めである。
    此設計は大局の上より非議すべきものにああざらんも●郡の立場に於いて特に隣壌吸集の利益によりして只一哩にても日野沿岸の延長を切望するは當然である。
    これが爲めに奥日野一圓の村長及有志は奮然起つて霞村迄二里許りの延長を請願すべく再三出縣並びに上京して各方面の有力者及代議士の援助を得て當局に訴へ
    遂に其目的の半に相当する當生山迄の延長が実現せられたのである。
    ●請願者の真意は其初めより古英雄の教訓を体して此擧に出でたりしやも知らず。何れにして今日何物をも慴伏せしめんずる権威の汽笛が亀井山に反響輪音遠く展開せる霞部落の上空に轟けるを聴く當該有志の愉快は想像の上なるべけん。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 盛大なる祝賀會
    今明両日日野奥部村聯合開催

    果せる哉今日の生山驛開通祝賀會は勿論只一生山部落の夫れのみではない又日野上村一村の夫れでもなく大なる奥日野の協●せる大祝賀會であり本沿線空前の大規模のものである乞う左に此状況を記せん乎・・・。
    祝賀會は奥日野の素封家にして當驛運動の巨●たりし入澤廉氏を會長に推し入澤日野上村長之が補佐役となり外四ヶ村長を評議員に任じ日野上村會議員全部を●特に在生山議員都田富田の二氏を委員に挙げ以下余興係接待係式場係等の部別を設け経費約二千餘圓を投じて當日及び翌・・・(途中文書欠落)・・・化せんとするのである。
    式場は生山運送店の大倉庫を以って之に當て鉄道省を始め縣郡の●官及各村の有志等二百余命を招待し村内會員を合して四百徐名の大宴會を張るといふ。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 餘興の数々

    餘興の開催数種の内特に日野郡●會の主催に係る家禽品評会は郡中の優品数十種を集め参考品として外来の珍種数あり。各町村長の會同あり盛況推するに足る。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 煙火

    列車の着潑毎に打揚げ夜●は●●のもの数十発を上ぐべく。尚特記すべきは米子藤本飛行研究所主が自己の郷里の故を以て自噴の下に

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 飛行機の陳列

    をなすこと之である。尚気流の関係を以て上空飛翔をもなすといふに至つては逸諏の山村現代交通上の最高機関が一時に到来するものといふべし。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 懸賞安来節

    の審査に當日の午後七時より開始する。賞金一等廿圓以下五等迄順次交付するが上に特製の優勝旗の授輿をもすべし。
    此報一たび伝はるや遠近十数里の斯道者相踵いで参加の申込をなすあり。是れ又空前の殷盛を見ん。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 大角力

    廿九日備中備後出雲の豪者を集め郡中の勇士と合せる大相撲を挙行す。花客十数名に上り優勝旗の用意又あり。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 懸賞仁輪加

    同夜七時より審査を開始す。賞金及び優勝旗の授輿あるはいふまでもなく既に十数組の申込を受けりといふ。
    殷賑雑踏歓呼狂喜の状●し。又●想するに●からざるべし。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 活気づける生山
    隔世の発展に驚かん

    生山は連●七十餘戸の部落なりしが今日の實状は全然隔世の感がある。試みに高地たる驛高より循瞰せんか駅前右側は先ず久代運送店を筆頭に生山運送株式會社黒坂運送店生山支店等軒を並べて新築し後ろも横も之等運送店の倉庫で充ち満ちている。更に直前町入口には新に割烹月廼家の新築あり。
    日野自動車會社の営業所これに並び更に生山鑛泉旅館の新築開業をなせるあり。此辺一帯新市街を現出す。
    歩を進むれば町内中空満飾に被はるるの下に人は町中一杯である。中に山陰銀行中国興行銀行の二支店や富田江澤の大雑貨店青木自転車店田邊太平商店等各々緊張味を以て當日を祝し榮木旅館田中旅館等は客室は充満して其上人の出入で逆上する程だ。
    此殷盛はもとより當日の一時的賑やかであるが併し半永久の終端地生山驛の繁栄と共に當町の隆盛は並●すべきは勿論にして分けて上記諸店の彌榮へは疑ふべくもない。
    況んや山陰の耶馬渓たる名勝石霞渓は實に當町を中心として南北三里の境域たるに於てをやである。●り石霞の名勝のみならず奥日野一●の名勝及●寺等●く當驛に降りて當駅を過ぎるもののみなるにあらずや當町の前途誠に洋々たりといふべきである。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 枚挙に遑なき
    名所舊跡
    石霞渓の勝

    當驛付近の名勝は枚挙に遑あらず。南石霞渓は町頭より日野川を渡りて左石見川に入り北石霞渓は驛より降りて荒神原に出で左折法勝寺街道に沿い更に印賀川に入る。
    ●大正七年夏根雨高校池田鐵州史鎮西の耶馬渓を視察し帰来當渓の風物と対比して更に我れに遜色なきを知り茲に大ひに天下に紹介せんことを期し自ら石霞渓と命名したり。
    ●し石見村霞村の両村名おとり更に石と霞即ち動中の静静中の動とにちなめるものなり。●に偶々郡教育會第四部會の講習會を大正校に開けるに際し池田氏は此事を以て内藤山上田邊止の二校長にはかり遂に同會の共鳴となり●●へて実地い臨み奇岩怪石に●して一々命名をなしたるものなり。
    爾後三氏の継続的●●により同保存會の設立を●更に天然記念物の編入を請はんとするに及べり。
    鐡道工事中多少の珍石●破壊したりしも以て全景の損傷となすに足らず今左に鐵州氏の筆になるものを掲げて之が紹介となす。
    ●榮々福神社二里の上方にあり船通山(名木梅の木あり)四里距る多里村に解脱時三里西方の阿毘縁に塚原の古墳二里距の宮内村に其他多数の名所は今回當祝賀會に於いて配布したるものに詳なり。他日更に紹介することとせん。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 石霞渓
    鎮西の名勝耶馬渓は奇巌秀峰を以て聞●南海の勝景寒饅●は奇洞紅葉を以て鳴る。

    山陰の勝地
    石霞渓は其れ何を以て著はるる呼由来 野の地山高く水長し従て到●●山水の佳地に富む。公●赤壁塔の峰仙石●鵜の●龍王瀧石見印賀両川の沿岸の如きは其の重なるのなり。
    就中生山石見渓間の絶景に至りては即ち天下の勝地として耶馬渓に比すべきか●た寒霞渓に比すべきか所謂石霞渓の地即ち是なり。●渓や秀峰●巌水石奇勝の配煙霞出没●幻浮動の●眞に●工の妙に驚かさるを得ず。天狗岩畳石烏帽子岩仙人岩伏虎臥龍●御虎か淵水神●瓢開の床桃岩通天橋は勝中の勝なるものなり山●●を負ひ川又川をなし巖々奇異樹々●●山川照悠水石●●の妙一去一來眞呼仙●の一●●也。
    其の一たび雷雨浦然妖雲四●を襲ふや虎巌忽●牙を磨き臥龍延々雲梯に駕するの観あり。初夏の●●晩秋の紅葉拾も●を●き錦繍を織るが如し。
    窮●●寒の交に●んでや六花翻々萬目皓々一條の清泉寒谷に響き其の●玲々弦を撫す●が如し。
    飛●巌角に●●氷刀拾も魚●を刺すに似たり。
    数群の飛禽一隊亦一隊●の来●や来る●●を知らず。

    其の去るや去る所を知らず其の飛ぶや或は高く或は近くの其の鳴くや呼ぶか如く笑ふが如く怒るが如く訴ふるが如し走るあ●追ふあり戯むるあり闘ふあり宛然一修羅場をなす光暉一たび雲を破るや百禽忽ら●●に●まり詩歌管弦封山呼●恰も天日を迎へて神楽を奏するものの如し。
    即ち知る此の景あつて而して此の鳥あり。此の鳥あつて而して此の眺めあり。
    焉漁李五七●の交魚を●底●探れば百千の渓鱗躍如として網に上る。
    其の快言ふべからず尺大なるものあり寸●なるものあり。青きものあれば黒きものあり。

    腹赤なるものあれば背班なるものあり。軟滑あり粗凸あり鬼の如きものあれば佛の如きものあり。
    頭大尾小尾大頭小千姿萬態名状すべからず●し。
    鱒はこの名物にして而かも鱗●の最大なるものなり。即ち●●席を設け石を以て●となし手を以て●●●ぐり大なる者は之を炙り小なる者は生にて食す。
    指を以て箸となし葉を以て皿となし。
    酬酌談笑興漸く●なるや歌ふものあり踊るものあり杖を以て三味に代え●を以て鼓に代ふ。羽●凱行人は皆●中の仙酒●の仙席上主なく賓なく●色陶然。


    松●恰も琴を弾ずるに似水韻恰も●を吹くが如し虎●●めに舞ひ●●●めに踊る。即ち知る此の景あつて而して此の魚あり。
    此の魚あつて而して此の楽あり。
    焉●冒険單に奇巖秀峰奇●紅葉の●を以て天下に誇るものと日を同ふして語る可けん乎哉。
    池田 鐵州

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)


  • 名物澤山

    當驛付近の所謂名物を挙ぐれば其数多きも就中石霞の鱒。霞の大蕗山芋雉山鳥等は特に著はる。
    名物石霞せんべいは同地の景色を●●に読み込みたるものにて趣味多し。
    同景絵葉書と共に太平商店にて發買せり。

    • 引用:因伯時報(鳥取県立図書館所蔵)

  • 開業当時の生山駅時刻表

     開業から約1ヶ月後のの生山驛を発着していた列車の時刻表を見たいと思います。
    1923年|大正12年12月26日の時刻表です。

    当時の伯備北線では一日に上り下り各6便ずつ走っていたことが分かります。上りの列車番号は奇数、下りは偶数です。また伯耆大山で山陰本線と接続しています。この時は境線もあるので、生山から伯耆大山まで行けばあとは東西への移動も可能でした。

     時刻表中に『哩程』とあります。これは起点の驛からの距離が見て取れます。この数字が大事な理由として、当時は『移動距離』と『列車等級』に依って運賃が決まったためです。
    伯備北線では『二、三等車ノミ』と記載があります。この二等車は現在では新幹線のグリーン車に該当するようです。三等車は普通列車となるようです。
    一等車はグリーン車よりも格上なので、トワイライトエクスプレス瑞風の特別室のようなものになるのでしょうか。

    • 提供:個人所有物

    • 提供:個人所有物

    • 提供:個人所有物

  • 駅周辺の様子

     開業日の新聞記事にもあったように生山驛開業により日南町地域の様々なものが一変した様子がわかりました。生山驛周辺にはどのような會社や店舗があったのでしょうか。
    年代は大正から昭和までの様々な資料からその様子を見たいと思います。

    • 出典:『大大阪薪炭商名鑑』,関西薪炭商報社,
      大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/919627/1/126

    • 帝国商工会 編纂『帝国商工信用録』
      昭和13年度版 [広島県,岡山県,山口県,島根県,鳥取県],帝国商工会,昭和13.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1024509/1/52

    • 小松原真琴 著『山陰鉄道案内』,
      山陰史蹟協会[ほか],大正14.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/914041/1/62

    • 神戸鉄道局米子運輸事務所 編『山陰小観,
      神戸鉄道局米子運輸事務所,大正15.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1020415/1/54

    • 鳥取県水産試験場 編『鳥取県水産試験場事業報告』昭和10年度,
      鳥取県水産試験場,昭和11.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1048072/1/42

    • 鳥取県 編『鳥取県勢要覧』昭和10年版,
      鳥取県,昭和10.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1441629/1/72

    • 池田鉄洲 編『式辞文集』,
      山本長次郎,昭和11.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1034722/1/72

    • 『台湾朝鮮満洲日本小売商名鑑,
      大阪問屋商報社,昭和6.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1032773/1/148

    • 帝国商工会 編纂『帝国商工信用録』昭和13年度版 [広島県,岡山県,山口県,島根県,鳥取県],
      帝国商工会,昭和13.
      国立国会図書館デジタルコレクション
      出典元ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1024509/1/56

  • 生山について

     生山地区についての概要を見てみる為に、日南町史の力を借りたいと思います。生山自治会について様々なカテゴリーで記載がありますのでとてもわかりやすいと思います。

  • 地名の由来(日南町史抜粋)

     「生山(しょうやま)」という地名の由来は諸説あるが、孝霊天皇が西国巡幸でこの地を訪れた際、皇女である福姫が現在の生山神社の裏山で生まれたことから、福姫が生まれた山という意味で「生山」と名付けられたと伝えられている。しかし、『因伯地名考』には、古い記録などに「庄山」とも記されていることから、周辺に存在していた荘園に付随する山という意味が込められているとも記されている。
    生山という地名の初見は、戦国時代の永禄年間に杉原景盛の書状の中で「生山表」という場所で宗徒の敵を鉄砲で攻撃したという記録があるので、少なくとも戦国時代の中頃には「生山」という地名が存在していたものと推測される。

  • 位置(日南町史抜粋)

     日野上地域の最も東側、大きく蛇行しながら北東に流れる日野川の両岸に位置し、北東側は日野町、西側は霞地区が隣接している。集落は生山駅周辺に集中しており、北西側に一キロメートルほどの場所に大田原集落がある。
    標高は町内で最も低く、約二八〇メートルである。
    面積  七・一八平方キロメートル
    人口・世帯数
    昭和四十五年(一九七〇)   九一五人  二六三世帯
    平成  二年(一九九〇)   七〇一人  二四〇世帯
    平成三十一年(二〇一九)   四六〇人  二一四世帯

  • 景観の変化(日南町史抜粋)

     合併から現在までの六〇年間に、生山の町は変貌を繰り返した。
    昭和二十八年(一九五三)の生山大火により中心地の大部分を焼失したが、その復興を遂げるため、都市計画区域に指定され、区画整理によって現在のような街路・街並ができあがった。これによって生山は日野郡で一番高い地価となった。山側と日野川の間に国道が貫き、両サイドに町道が平行、町道と町道を結ぶ形で三本の町道が横断し、碁盤の目のような通りができた。通りに沿って家屋、商店、各種の事務所、飲食店などが密集し、まさに町の顔とも言うべき都市型の街並みが形成された。生山駅前からは各地域全てに向かうバスが運行され、朝夕は通勤・通学者で混雑する光景が見られた。しかし、昭和が終わる頃から人口減少は著しくなり、生山の街も次第に活気が失われていった。決定的に寂しい街並みとなったきっかけは、平成十二年(二〇〇〇)十月六日に発生した鳥取県西部地震がもたらした被害である。役場庁舎裏山から落ちた岩が中央公民館を直撃したため立入禁止の建物となり、行政の核である庁舎を生山から霞に移転する事態となった。これに伴行するかのように、様々な団体、組合、企業が生山地区大田原、または霞地区に移転し、商店街の店舗数も激減した。
    代わりに、町の表玄関ともいえる生山駅の改装を含めて駅前開発事業が行われ、かつて狭隘だった駅周辺がゆったりとした駐車場のある駅前と商店街に変化している。バスの運行も民間会社から町営となり、駅前での待機は無くなったが、路線は継続されている。
    平成二十五年(二〇一三)頃からは、生山中心市街化計画により大田原で営業していた木材市場など林業関係の企業が下石見地区へ移転した後は、企業や道の駅が進出し、この周辺の景観は大きく変化している。

  •  日南町史には上記以外もまだまだ生山自治会について詳しく書かれています。是非一度、読んでみてください。

伯備線 生山駅・上石見駅 開業100周年事業

日南町実行委員会